エゴイズムをシロップで希釈

 

ずっと外が怖かった。外が怖すぎて出られなかった時期があった。明けない夜を探して秒針を追って、明けゆく空に願いを溶かしていた日々が、確かにわたしにはあったのだ。

明けない夜はないという言葉は、励ましの一節として使われがちだ。夜は昏くてなんも見えなくて怖いから。先行き不安の一種のメタファーとして使われるのはまあ、かなり妥当であるよな。

 

でもわたしは朝が怖かった。

 

朝が来る、人々が起きてくる、人々はルーティンを飲み込む、ルーティンとは即ち歯車だ、歯車が動く音がする、社会は歯車だ。朝を恐れる理由は単純である。わたしはルーティンに乗れなかった。顔も知らない隣人は歯車のそこに組み込まれて、しかしわたしは違った。それだけだ。


怖い。怖いのだ。


外は戦場だ。他の人間にとってはもう少し位は優しいものであったのかもしれないけど。そんなことないか。まあわたしにとっては死を孕む戦場で、向かうには何かが無いといけなかった。それにわたしは過剰な程に盛り立てられた化粧を選んだ。というかわたしにとってはそれしかなかったのだ。他人との関わりを恐れたわたしにとって他を害する武器などは意味を持たず、最初で最後の防具としてはそれしかない。美醜は他人からの評価をかなり左右する。わたしは幼少期から可愛くない子供だったのでそれを知っていた。有り体に言ってしまえばどう足掻いてもブスな子供であったので、美しくないことがどうマイナスに作用するのかわかっていた。この辺は自意識が宿ると同時に知覚していた。今更傷つきもしませんで。

しかしながら外は残酷にきらびやかであった。ちょ、ギリ社会復帰初日のつもりなんだけどこれはちょっとやりすぎじゃない?(笑)…一般的にはこういうもんなの?そうかァ…となった。怖。

朝は相変わらず怖かった。でも逆に言えば怖くないこともあんまりなかったんだな。防具は死ぬほど否定された。それはまあちょっとわかってたので戯けるふりをして回避してみた。ピエロとして立ち回ることは何故か上手かった。気持ちよかったのかも、ピエロ。朝を朝として嚥下してた時期もそうだった気がするし。昏いとこから正気じゃない顔して出てきてみれば、そういうものということになった。そういうものであるわたしも受け入れてくれる寛容さがあったし。ありがて〜〜。そういえばわたしの化粧、ピエロに似てたな。そういうこと?

わたしは普通だった。いつからか朝が怖かった。ピエロになった日があった。それが気持ちよかった。そのままぐちゃぐちゃに腐った日々があって、迷惑をかけて、正気に戻ったりして。正気ってどこ?やっぱりそういうこと?


あの日突然話しかけてきた人間も、イレギュラーなメイクであった。あのひとも怖かったのかもしれない。外は怖いね。怖いなかで踏み出したその1歩を導いたのがあのアイラインだったのかもしれない。或いは抵抗。外は強制力がある。同調圧力で首を絞められて、掠り声がそういう形をしているのかも。まあ結局全部妄想であるので。そうでなければ良いし、むしろそうじゃない方が良いし、でもそうであったら。その時わたしは、誰か知らない人間のアイラインの為に泣いてしまうと思う。別に誰かは泣かれたくなんかないんだけど。けどそれは自己満足で、過去のわたしのために泣くことと同意だ。怖かったよな。申し訳ないけれど今も怖いよ。タイルの模様ばかり追って暮らしている。そうじゃなくなってる方が君にとってはいいよな。わたしにとってだってそうだ。でも、意味がわからず鏡を殴って恐れていた君はもう居ない。わたしはわたしのイレギュラーを包括的に愛している。ねえ、

 

誰かがわたしのことを全くまともではないと言った。誰かがわたしのことをまともではない風に偽っていると言った。正解とかはずっとわかんないなって思う。普通に知らんし。けれど、どちらの話もそうなのかもしれないねと飲み込めたのは最近のことだ。自分が誰かに評されることを飲み込めたのだ。これはきっと歯車の始まりだ。この歯車はうつくしいメタファーだ。


ぱっちりと覚醒したこの朝に怯えながらイレギュラーを描いている。手鏡は可愛くないわたしを映している。わたしは社会的秩序にしっかりと反していた。非常識であった。けど紛うことなく誠実であった。そうしてわたしの思想は、怖がりを愛したいような気まぐれでいた。

 

追伸:ピエロになりきれなかったつまんないわたしを怒って諭してくれたあの日々はありがとうね。

 

わたしとチャットと紅と

 

この文言、インターネットにズブズブの金子みすゞみたいでよくないですか?今回は0点の電子大喜利を披露したかっただけなのでこれで終わりです。パケットを無駄にしたことを悔いてください。以下最近のどうでもいい箇条書きすぎ日記です。

 


・酒飲みすぎ

酒がやめられません。全然知り合ったばっかの人間にすら心配される日々を送っています。最近酷い時は4L近く飲んでいるかもしれません。二日酔いにならないのが逆に怖いです。酒が飲みたすぎて食事を削る生活を始めました。現在1日の必要カロリーの半分以上を酒で摂取している状態です。分からないながらも内臓に負荷が掛かっているはずですし、近頃は喉が機能しなくなってきました。かなりウケます。しかし酒を飲んで気絶する以外に眠る方法がないので、あと人生できるだけシラフでいたくないので、この生活を続ける他ありません。痛くってもこれが生きる術なのです。ライフハックってワケ。知り合いの精神病患者(手帳持ち)にこの話をしたら「自傷行為すぎるしODしたら?」と言われたのでそれはしっかり無視しました。

 


・飯ドブすぎ

ダイエットすべく自炊を始めました。白米が好きすぎるのでなるべく摂取したいと思い、かなりの頻度でお雑炊を作っています。しかしあまりにも見た目がドブすぎる。最早美味しいのか否かすらも分からなくなってきました。職場にお雑炊弁当を持って行っては「汚すぎない?」という謗りを受けつつ無心で口に運んでいます。わたしは元々食べることがだいすきで、今でも人生のいちばんの幸福は食だと思っています。わたしを楽しくさせてくれたのは食でした。同時にひどく悲しい時や寂しい時に満たしてくれたのも、食でした。いつしかわたしは食をそれ自体の幸福として享受できなくなってしまっていて、食欲とは違うところを埋める手段だったり一時的なものとして無理やり吐き戻したりを繰り返すようになってしまいました。いつか食を心から楽しめるようになることを祈りつつ、今はドブを作り続けています(一応ドブ以外もちゃんと食ってます)。

 


・予定管理が下手すぎ

人生の空き容量がなさすぎてベランダで酒を冷やすことでおなじみのわたしですが、ストレージ不足にも関わらずまた仕事を増やそうと思っています。今はお花とキットカットデイトレード・ふわふわおまんじゅうライン工のお仕事をさせて頂いております。次はサラリーマン専門スカウトのお仕事です。友人が合法ショタ専門スカウトをしているらしいので、恐らく誤差です。世間様に比べてかなり気ままに仕事をしている自覚はあるのですがその気ままさというのが自分の中で一種の恐怖となり、キャパシティ以上に仕事を詰め込んでしまっています。わたしは元来何も出来ない人間です。世の中のアベレージに達せず、血反吐を吐いてなお、誰かに迷惑をかけてすら、プラスにはなれないことを知っています。かなり人に恵まれての今、ようやっとどうにか立っております。しかし予定がない今日に予定がある明日を見ることが酷く辛い。それならばいっそと思い働いています。労働意欲は一切ないので毎日お客様をぶん殴りそうです。ここからでも入れる保険ってありますか?

 


・危険物ありすぎ

最近引っ越しました(2年前)。大人になると最近がバグるらしいという噂は聞いていましたが、こんなに顕著にバグるとは思ってなかったです。今住んでいる自治体は土地自体が危険な為か、ライターやガス缶等の危険物のごみ捨てについての詳細がどこにも書いてありません。逆にポイ捨てありなのかもしれないと思いつつ、育ちの良さ(笑)から捨てられずにいます。そのお陰で部屋の隅にライターが山積みになっていて、どれが使えるかもわからなくて、あの日がどこに行ってしまったか、わたしは知らないままでいます。それらを正しく捨てられていたのならば今のわたしはもっと正常であれたのかも、勿体ぶった言動が異常性に拍車をかけたのかも、とたまに我に返るけれど。ひとつを手に取って泣いてしまうほど幸せだったのは紛うことなく現実だったので。取り敢えず今はそのままでいいかしらと思うし、手に取るものがなくてももう特別へと成り上がってしまったからいいと言わせて欲しいなと願っています。だからいつかの机上の存在も、ずっと特別であって欲しいと思います。シラフの際の記憶力だけ無駄にいいのできっと一生忘れられません。そこに、燻る煙草だけがいるのです。ここまでしんみりと書きましたがやっぱりなんもなくても元より精神異常者ではあるので危険物は捨てたいです。ライター数十本あるの怖いから。

 


以上、金子みすゞに性別以外掠らない人間の近況でした。皆様ご自愛くださいませ。

 

すわ、

 

自らの浅ましさだとか、皺の薄くなった脳味噌だとか、気持ち悪いなあと思っている。フィードバックという機能がすっぽり抜け落ちちゃってるから思うだけ。明日こそは少しでも上手くやろうとぼんやり考えて、繰り返す。異端に満たない程の欠損。しかしながら世間様に弾かれるくらいには欠如。

お酒を飲まずに眠る夜が少ない身なのでいつでも睡眠の質が悪い。悪夢ばかり見ている。昨日も1ヶ月前も1年前も魘された。内容は都度違えどあまりに嫌なリアルに包まれていて、それが現実であるように感じて、もしかしたら本当は現実だったのかもしれない。悪夢・或いは白昼夢がずっと消えないでいるのもきっと欠けたどこかの悪戯なんだ。

何を継ぎ接ぎすれば社会に上手く嵌れるのかも分からずに任意のパーツを探す毎日を過ごす。歯車みたいな顔を一瞬だけする。その一瞬がめちゃくちゃ上手い自信がある。それは最早反射的な仕草で、自らが望んで繕った訳ではない。瞬きの間くらいはぴたりと合う形がわかるし、そうあれるのだ。けれど瞬間を切り抜いただけで自分の動作の中に蓄積されるわけではない。連続体で捉えられるわけはもちろんない。コミュニティに所属する時間が長い程に乖離を感じる。埋められないその隙間を。そうしてなんとなく疎外感を覚えるのだ。わたしは賢いので、誰かが望む人格のどれにもなれないことがわかってしまった。更に言えばわたしは馬鹿なので、それになる為に何を補って何を潰せばいいのかがわからなかった。

いっぱい御本を読むこどもでしたが、終ぞ人の気持ちは分からず、添えずにここまで来ましたよ。そういえば大人にもなれませんでした。女の子にも、誰かの大切なひとにも。なれませんでしたが、取り敢えずは死ぬことが叶わず、生きております。溜息を吸って循環し続ける人生。上も下もなく漂っている。何物でもない。ずっとそうだったよね。これからもそうでいることがお約束されていますもの。ぷかり浮かぶ様は醜くて、お似合いですわね。

わたしは名前が欲しかった。固有名詞としてのラベリングを望んでいた。傲慢だからこそ、他人の息を奪いたかったのだ。叶わない延長線上なので、有象無象にカテゴライズされた先で幸せな悪夢を見ている。

イレギュラーを貪っている。

 

雁首と椿・スペクトラム

 

 

そろそろ20+n回目の誕生日を迎える。脛から血を流しつつ大阪に向かったあの日から1年が経過したと思うと早いような気もする。しかし鬱病になってからというもの、時を重ねるという現象自体がめっきり億劫になった。本質的には、15歳の時にわたしはいちど死んでしまったのだと、そう願うような思い込むような気持ちでいる。


20+n歳のわたしは今、適当な仕事で身銭を稼いでいる。数年に渡って身をやつしているこの仕事はしょうもない自分にとって天職なのだと思う。主に勤務形態において(世の中の仕事自体にはしょうもないものとかないので)。わたしの過ごす日々は気楽だ。一般的なレールをよそに、ある種の暴力性を伴う許容だけがあるコミュニティのなかで、ある程度の正当を得ている。厳密に言えばわたしはコミュニティで絶対的な肯定を得たわけではない。基本的に許容を求めることは許容をすることと同じだ。マイノリティに付随する範疇の広さ(個人的には周囲の寛容とそれに期待した拡張)に甘え、自分とその関連領域への責任転嫁をするつもりはない。しかし理解とは一種の反芻と消化、つまりぐちゃぐちゃに噛み砕かれた志を自らに於ける異物として再度、それを何であるかなど端から認識せず嚥下することに他ならない。それは我々が何がしかのマイノリティである限り。多様性をざわめく現在にとっても似たようなことで、あなたにとって正しくないことがわたしにとっては正しかった。一対一の世界線にとってその考えは推奨されていても、境界線外の全ての他であるマジョリティは待ってくれない。貼られたレッテルがいかに正しくとも常にわたしはわたしの正しさを持っていて、けれども外側のラベルの正確性の高さと比例する程嘲笑されるべきなのだ。枝分かれしていく人生の中でわたしは確かに何度も選択を重ね、今を選びとった。相応しさとは乖離した世界観で健やかに息をしている。確かにわたしにはこれが正解なのだ。身体を職場に持って行って、にこやかに愛想を振りまいたりしなかったりして過ごす日々は正に気楽だ。有難いことにそこそこお金も頂いているし、生活に困ることもない。瞬間的にでもとっぷりと満たされている。自分のアドバンテージを多少なりとも目に見える形で得ている。他の誰でもないわたしにしか迎合出来ない欲求は己の承認への近道だ。この満たされた世界で、あと5年はきっとこんな風に生きていけるだろう。


でもわたしの人生は恐らく5年じゃ終わってくれない。


この先自分がどう生きてくかはわからない。ひとりで生きていくならそれでいいと思っているし、もしかしたら配偶者じみた存在がいるのかもしれない。どちらにせよ数歩進んだ先は闇に閉ざされていてここからは見ることができない。わたしにはどう足掻いても今の延長線上が明るくあるように思えないのだ。生活は全てを積み上げた先に立っている。過去も現在も未来も、全てを飲み込んで居座っている。反芻と消化だけで終わればいいのだけど、自分自身だけではそんなことなくて、何かを糧としなきゃどうにもならない。胃に消えるだけのあれこれでなくて、もっと生産的なスペクトラムの何か。誰にとっても変わらない。若さを切り売りする生活はキャリアを積み立てていくよりも分かりやすくて、簡単で、酷く脆い。仕事中や酒を飲む狭間で本当にわたしがしたかった生活を考えることがある。今となっては一笑に付されても致し方ない夢があった。もっと現在を消耗する前に、言い訳で消化不良を誤魔化す前に、叶えたい未来があった。他者に弄ばれたその屈辱を晴らしたかった。与えられた・育ってしまった自分に屈したくはなかった。全ては意味があり美しいのだと信じていたかった。そうしてただただ属人化しない生活がしたかった。その為の努力を捨ててしまったのは誰でもないわたし自身だったのだけど。


間違いを恐れずに言えば、わたしの罪は努力を怠ったことではない。ぬるま湯の中で息を潜める気持ちよさを知ってしまったことだ。

どうしようもないふたつめの生を享受しながら可能性と選択肢を懐古している。美しかったように見える過去から滴る、ありもしなかった甘い未来を舐めている。これは自傷ですらない。自慰行為に浸っているからこのままでしかいられないことをわかって、敢えてそのままにしている。これは罪だ。怠惰という、本当の罪だ。

窒息しない今を揺蕩う自分に問う。数年繰り広げたどうしようもない展望は気持ちよかったのかと。目先に囚われて捨てたチャンスは今になって正しく君を苦しめているのかと。答えの全てはYesだと分かっている。わたしはいつだって気持ちよくて苦しい。そうして追われる時間の中で合理性を全て失くして、飽き飽きした流動をチューイングしてるんだから。言っただろう、気楽だって。


快を他所にちりちりと背中を灼くタイムリミットを感じながら、わたしは再度の死を心待ちにしている。今はただそれが最後であることだけを願っている。

 

 

鬱血した生首

 

間違えて喉奥に爪をぶっ刺し続けている。身体が物理的に強いで定評のあるわたしだが、どうやら粘膜は人並みの耐久性しかないらしい。少しだけ唾液に血が混じっていて。そういえば最近トマト食べてないなあとぼんやり思った。

1年以上ぶりにわたしの肩を見た友人は「骨がすごいね」と言った。体重をいくら落としても本当に痩せたいところが変わらない。そのせいで太っているのに肩の骨だけ突出している状態が出来上がってしまったのだ。冗談のつもりでこのままいくとガンキャノンに進化するよと返したら、真面目な顔で「あながちだね」と頷いていた。友人とは結構仲がいいつもりでいたんだけど、わたしのことをなんだと捉えているんだろう。

わたしが喉から血を流しているのも、ガンキャノンになりそうなのも今に始まった話じゃない。時間という概念が不変である限り。いつでも変わらないつもりでいる。ずっとこの心身と歩んできた二十幾許かであるのだ。変われなかった。少なくともプラスの方向には。

強くてふとましい身体に、少しだけおかしい脳味噌と心を積んで。わたしは正しく時系列を進んだ。薄く刻まれたトラウマも死に至りそうな挫折も、幻聴も幻視も、息が詰まる・或いは呼吸が出来ない程の痛みだって全部。正しかった。わたしは何にもなれない。かわいくもいじらしくもスタイルよくも賢くも。そういう長所のピックアップだけじゃなくあまつさえ人間にすらなれない。ガンキャノンに変態しなくても。あとね、母親にもなれないってさ。機能的な意味じゃなく。

けれどこの人生は幸福だ。

嘘とか強がりとかじゃない。わたしにも憧れがあったけど、それを今更論ずるのは意味がないので。理想像との乖離を以て不幸か否かを断定する方式に於いては、そりゃ不幸でしかないだろうけど。本当は産まれてくること自体が不正解な人間だったから、この世界に産み落とされた時点で全てが正解で、二元論的にしあわせなのだ。イレギュラーが故に任意の誰かに迷惑を掛け続けていることに関しては申し訳ないけれど。しあわせでごめんね。産まれてごめん。ね、あなたの何者かはいちばんしあわせです。

呼吸をするだけマイナスになる世界で、わたしはしあわせを数えています。賽の河原みたいでおもしろいね。拾い上げた積み石を君にぶん投げるから、いつか届きますように!

投げられなくなる前にね。

 

ハロー、空中。

 

わたしにとってのおしゃれは別にたのしいことではなかった。化粧も、髪型も、服装も、そこそこであればよいのだ。それらは世間様を渡り歩いていく防御の術でしかないから。

自身がかわいくない顔立ちをしていることもぽっちゃりに分類される体型であることも実は知っている。物心ついた頃から今の今まで、何度も悪気のない言葉に傷ついた。頭のてっぺんから爪先、内臓をひっくり返して隅々まで検分したところで、醜い。だから自分を守る為の武器として飾り立てることを選んだ。過剰な程に。そうしたらまた別ベクトルに嘲笑される羽目になったけれど、どうせ負け戦なら正攻法で挑んでいくよりずっとずっとマシだと思った。かわいくないひねくれた女なのでやり口が汚くてずる賢いの。

過剰装飾がデフォルトになって数年。自分の見た目だけでなく考え方も異常だということにすっかり気付いてしまっていた。異常者と健常者が同じレールを歩ける訳があるまい。かわいいはいつまで経ってもわたしにとっての過程でしかなかったし、他人が投げかけるそれにはちゃんと性欲を見ていた。本当に欲しいものは手に入らない、ねじ曲がりきったこの汚らしい身なので。自分のことは好きじゃないけど、そんな惨めな強がりでしかいられないところは嫌いじゃないとさえ思っていて、これからも寸分違わずそう思っていくのだ。と信じていた。

誤算は趣味の悪い男を好きになってしまったことだった。

完璧に化粧を仕上げた姿より、すっぴんより、崩れかけたところがいちばん好きだと言ってくれたその日から、わたしはかわいいを手段じゃなくて目的にした。誰かの為にかわいくなりたいと強く思った。頬紅だけは差さないで欲しいと言うから全部ドレッサーの奥にしまいこんで、クローゼットの中身を整理した。隣を歩いていて最低限でも恥をかかせないように体重も落とした。まあ好き勝手やる癖は抜けないけれど、あなたがなんだかいつでも脳のすみっこにいる。仕事で酷く消耗した日もあまつさえ悪口を言われた日も、あなたからのかわいいの言葉を妄想すればもう少しだけと頑張れた。現実世界でわたしの頬をまろく包んで、かわいいねと破顔したのを見た瞬間なんか、今ここで死んでしまいたいとさえ思った。

最近忙しくて会えてないね。その間にウルフカットになったよ。さすがに偶然だけど出会った頃の君と同じ髪型。今度の結婚式に着ていくワンピース、色も型もすごく綺麗でかっこいいから見せたいな。きっと気に入ると思う。あとね、わたし実はお化粧薄くなったんだ。かわいいってたくさん言ってくれたから、少しだけ薄くしてみてもいいかなって…ありがとう。

そうして終ぞ、わたしはたったひとつだけ欲しかったその言葉を失った。

今まで選ばれていたことの方がおかしいのだとは分かっている。吹けば飛ぶような関係だった。それを保てていたのはひとえにあなたの努力だったのだと思う。あなたがいなくても生きていけますよ、違う、元に戻るだけだ。いなくても大丈夫だよきっと。けれどいて欲しかったし、その為なら何も惜しまないでいられた。けど惜しむとか惜しまないとかそういう次元はとうに越してしまっていたのだろうか。死ぬ程妬ましい、うそつき。いやこれも違う。人生から切り捨てられたのが悲しくて、死にそうなあなたを見ていたのもまたあの日のわたしであったのに。心中しようとしてた我々って気の迷いだったかしら。違うなあ。途轍もなく好きだった。たぶん、これが正解だ。

もうウケちゃうくらい感情がぐちゃぐちゃだった。その最中。食べ過ぎたご飯を吐いて、飲み過ぎた酒を吐いて、トイレに蹲ったまま涙がぽろりと零れた。何者にとっても自分は途中経過の踏み台でしかないことを知ったから。やっぱりわたしはわたしのことが嫌いで、わたし以外を好きでいることでしか生きていけない。そんなだから自分の世界ですら主人公でいられなかった。

緞帳の奥、カーテンコールにすら挟まれない人生。舞台袖で煌びやかな瞬きを眺めている。いつか手を伸ばして掴めたらいい。そしてそれが掌の中でぐちゃりと潰れて死んでしまえばいい。

 

彼女は肉を屠って蝶になった

 

小説は論理的に構成されなければならないが、詩はそうでないから人間の本質を映している。的なことを中島らもだか荻原朔太郎だかが言ってたらしい。ふーん。バイト先で結構話す社員さんが教えてくれた。わたしは詩とか本当に読まないけど、自論として「ぜって〜文章書くの理系の方がうめえよな」があるのでなんとなく言いたいことはわかる。そもそもこんな話に至った原因というか、元の話題はついさっき職場を出た同僚の女の子である。

あふれる涙をどうにか隠しながら帰った彼女は、きっと感情の言語化がめちゃくちゃ下手な子だった。社員さん曰く昨日も似たようなことがあったらしい。1時間程粘ってはみたものの結局うまく言葉を引き出すことはできなかったという。わたしは勿論のこと、社員さんもかなり心配していて「散文詩みたいでいいから話してくれないかなあ、話せないものかな」とぼやいていた。

別に論理的に話さなくていいと仮定したところの詩にしたって、感情なんか靄がかかった上に雁字搦めになっているもので単純な喜怒哀楽のひとつな訳がなくて、それを手繰るのだって死ぬほど労力がいる上に、さらにその感情に出来るだけ嵌る言葉(或いは嵌めたい言葉)を拾っては捨て続けるのってどう考えても苦しいし難しいしキツすぎる。それにやっと見つけた言葉だって、自分の身体から出た瞬間に別物になってしまうし。なんにせよわたしが思うに、言語化はある種のスキルだ。社員さんは「そんなものかね」とだけ呟く。でもそれだけじゃなくて我々が彼女に散文詩的な何かでも良いと言葉を求めるのであれば、そうして応えてくれたのであれば、感性を持たないことにはただの傲慢の押しつけになってしまうのではなかろうか。いやもうここまででもだいぶ傲慢だけれど。

昨日彼女を慰めようと必死になっていた社員さんともうひとりは、どちらかといえばいつでも明るいあちら側の人間だった。対して彼女とわたしは、敢えて対比的に言うのであればどうしても仄暗さを払拭できないこちら側の人間であった。彼らは陰気には陽気を当てて、元気になって欲しかったのだろう。それは彼らの正攻法で純度100%のやさしさだ。でも、わからないけれど、彼女にもし何かをしたいと思うなら、きっと必要だったのはただの寄り添いだったんじゃなかろうか。傷

の舐め合いでもいい、頷きでもいい。これはただの感性の違いであって何も誰も責められやしないことだと思う。

たとえば親友のことを「彼は僕にとってたっぷりのナポリタンだ」と、詩的に表現したとする。あたたかくて、幸福で、懐かしい情景。でももしかしたら他の人に同じことを言わせるのなら、それはなみなみと注がれたメロンソーダかもしれないし、くたくたになったあとに吸い込む煙草の紫煙であるかもしれないし、最後の晩餐としてのオリーブのひと粒であるかもしれない。俵万智のサラダ記念日が本当はからあげ記念日であったように。マジで何言ってるかわかんなくなってきた死のうかな。

とにもかくにも、我々は詩人ではないし、評論家でもなんでもない。彼女をこちら側の人間としていいのなら、現在の状態から言葉を強要し元気にさせようとするのはおそらく惨いことだと思う。それは謝罪が赦しを乞うための暴力であることと一緒だ。言葉はいつだって暴力なんだ、言語化だって感性だって、受け取り手が存在してしまう時点で意図せず頬をすぱりと切ってしまう。悪意も善意も関係がない。かなしいことに機械じゃないんだからチューニングだって完璧になんか無理だ。

今わたしは酒を飲みながらこれを書いているので、酔いが覚めればまた違ったことを思うんだろう。そしてクソみたいな散文詩としても零点の文章を書くわたしとはマジで関係なく、桃のようにやわこくてかわゆい彼女は今晩も枕を濡らすのかもしれない。ただ、明日の朝起きた時に。そのまぶたの腫れが少しでもマシでありますようにと、彼女にとってのたっぷりのナポリタンにもなれない身分で願っている。