雁首と椿・スペクトラム

 

 

そろそろ20+n回目の誕生日を迎える。脛から血を流しつつ大阪に向かったあの日から1年が経過したと思うと早いような気もする。しかし鬱病になってからというもの、時を重ねるという現象自体がめっきり億劫になった。本質的には、15歳の時にわたしはいちど死んでしまったのだと、そう願うような思い込むような気持ちでいる。


20+n歳のわたしは今、適当な仕事で身銭を稼いでいる。数年に渡って身をやつしているこの仕事はしょうもない自分にとって天職なのだと思う。主に勤務形態において(世の中の仕事自体にはしょうもないものとかないので)。わたしの過ごす日々は気楽だ。一般的なレールをよそに、ある種の暴力性を伴う許容だけがあるコミュニティのなかで、ある程度の正当を得ている。厳密に言えばわたしはコミュニティで絶対的な肯定を得たわけではない。基本的に許容を求めることは許容をすることと同じだ。マイノリティに付随する範疇の広さ(個人的には周囲の寛容とそれに期待した拡張)に甘え、自分とその関連領域への責任転嫁をするつもりはない。しかし理解とは一種の反芻と消化、つまりぐちゃぐちゃに噛み砕かれた志を自らに於ける異物として再度、それを何であるかなど端から認識せず嚥下することに他ならない。それは我々が何がしかのマイノリティである限り。多様性をざわめく現在にとっても似たようなことで、あなたにとって正しくないことがわたしにとっては正しかった。一対一の世界線にとってその考えは推奨されていても、境界線外の全ての他であるマジョリティは待ってくれない。貼られたレッテルがいかに正しくとも常にわたしはわたしの正しさを持っていて、けれども外側のラベルの正確性の高さと比例する程嘲笑されるべきなのだ。枝分かれしていく人生の中でわたしは確かに何度も選択を重ね、今を選びとった。相応しさとは乖離した世界観で健やかに息をしている。確かにわたしにはこれが正解なのだ。身体を職場に持って行って、にこやかに愛想を振りまいたりしなかったりして過ごす日々は正に気楽だ。有難いことにそこそこお金も頂いているし、生活に困ることもない。瞬間的にでもとっぷりと満たされている。自分のアドバンテージを多少なりとも目に見える形で得ている。他の誰でもないわたしにしか迎合出来ない欲求は己の承認への近道だ。この満たされた世界で、あと5年はきっとこんな風に生きていけるだろう。


でもわたしの人生は恐らく5年じゃ終わってくれない。


この先自分がどう生きてくかはわからない。ひとりで生きていくならそれでいいと思っているし、もしかしたら配偶者じみた存在がいるのかもしれない。どちらにせよ数歩進んだ先は闇に閉ざされていてここからは見ることができない。わたしにはどう足掻いても今の延長線上が明るくあるように思えないのだ。生活は全てを積み上げた先に立っている。過去も現在も未来も、全てを飲み込んで居座っている。反芻と消化だけで終わればいいのだけど、自分自身だけではそんなことなくて、何かを糧としなきゃどうにもならない。胃に消えるだけのあれこれでなくて、もっと生産的なスペクトラムの何か。誰にとっても変わらない。若さを切り売りする生活はキャリアを積み立てていくよりも分かりやすくて、簡単で、酷く脆い。仕事中や酒を飲む狭間で本当にわたしがしたかった生活を考えることがある。今となっては一笑に付されても致し方ない夢があった。もっと現在を消耗する前に、言い訳で消化不良を誤魔化す前に、叶えたい未来があった。他者に弄ばれたその屈辱を晴らしたかった。与えられた・育ってしまった自分に屈したくはなかった。全ては意味があり美しいのだと信じていたかった。そうしてただただ属人化しない生活がしたかった。その為の努力を捨ててしまったのは誰でもないわたし自身だったのだけど。


間違いを恐れずに言えば、わたしの罪は努力を怠ったことではない。ぬるま湯の中で息を潜める気持ちよさを知ってしまったことだ。

どうしようもないふたつめの生を享受しながら可能性と選択肢を懐古している。美しかったように見える過去から滴る、ありもしなかった甘い未来を舐めている。これは自傷ですらない。自慰行為に浸っているからこのままでしかいられないことをわかって、敢えてそのままにしている。これは罪だ。怠惰という、本当の罪だ。

窒息しない今を揺蕩う自分に問う。数年繰り広げたどうしようもない展望は気持ちよかったのかと。目先に囚われて捨てたチャンスは今になって正しく君を苦しめているのかと。答えの全てはYesだと分かっている。わたしはいつだって気持ちよくて苦しい。そうして追われる時間の中で合理性を全て失くして、飽き飽きした流動をチューイングしてるんだから。言っただろう、気楽だって。


快を他所にちりちりと背中を灼くタイムリミットを感じながら、わたしは再度の死を心待ちにしている。今はただそれが最後であることだけを願っている。