惨めな賛美

 

自分が思う正しさを自身だけはどうにか持っていたい。それが目的から手段に挿げ替わっていたのは果たしていつだったのだろうか。気付いた時にはとうにそうであった、そうして数年を重ねていたのだろうという感覚だけがあった。あまりにも性格が悪い。きっとわたしはわたしのいちばんの美点を失った。

幸いにも周囲に恵まれ過ぎているお陰で、身勝手なモーションに何かしらの返事を得ている。決してコミニュケーションとして提示した訳ではなくとも、何が正解とはなくとも、返ってくるということは僥倖であったと、幾度となく反芻して思う。そう、コミニュケーションではなかったのだ。本質的には社会の末端どころかカーストではダリットに満たない。これは支配階級への批判ではなく、生を受けるべきではなかったというのは(その是非は分からないとして)確実に存在するのだ。欠陥を持たない人生を歩めど、尚!しかし断片的に従属を続けた身、そうして今もコミュニティに置かれる身にとってあからさまに見えるものを一切感知しないでくれと望むのは、傲慢と稚拙以外の何物でもない。けれども体裁だけ整えた表層のみを自分としたいから、そのコミニュケーション上の暴力的我儘が通じるのであれば、幸福な誤認で以て全て幕引きできる気がするのだ。

他者への記号的な伝達としての言葉を持たないことはわたしにとってプラスとマイナスのどちらであったのだろうか。もしわたしだけの思いに正しい記号を用いたとして相手は何を抱くのだろうか。相手はその思いをどういうフローチャートにおいて言葉にするのだろうか。その言葉はわたしが排出した記号とどう噛み合うのだろうか。噛み合う?多元的要素は噛み合うことだけを目的とされるべきなのか?わたしはわたしの都合に相手を振り回すべく一切の全てを無に帰したいのではないか?

夢想する。思考が言葉としてでなく、形と色として他人の心へとすっかり投影されてしまえばいい。尖った透ける青の、柔く甘ゆくひかる桃色の、グラデーション状に揺蕩う紫の、そうしてぐらつく深夜のコンクリートの粘つい。それはどうしたって自己本位的でしかないが悪意でデコレーションしてしか生きていけないなりには、妄想上の誠意だと、言わせてくれ。

一等汚かった人間だと、思っていてくれ。