彼女は肉を屠って蝶になった

 

小説は論理的に構成されなければならないが、詩はそうでないから人間の本質を映している。的なことを中島らもだか荻原朔太郎だかが言ってたらしい。ふーん。バイト先で結構話す社員さんが教えてくれた。わたしは詩とか本当に読まないけど、自論として「ぜって〜文章書くの理系の方がうめえよな」があるのでなんとなく言いたいことはわかる。そもそもこんな話に至った原因というか、元の話題はついさっき職場を出た同僚の女の子である。

あふれる涙をどうにか隠しながら帰った彼女は、きっと感情の言語化がめちゃくちゃ下手な子だった。社員さん曰く昨日も似たようなことがあったらしい。1時間程粘ってはみたものの結局うまく言葉を引き出すことはできなかったという。わたしは勿論のこと、社員さんもかなり心配していて「散文詩みたいでいいから話してくれないかなあ、話せないものかな」とぼやいていた。

別に論理的に話さなくていいと仮定したところの詩にしたって、感情なんか靄がかかった上に雁字搦めになっているもので単純な喜怒哀楽のひとつな訳がなくて、それを手繰るのだって死ぬほど労力がいる上に、さらにその感情に出来るだけ嵌る言葉(或いは嵌めたい言葉)を拾っては捨て続けるのってどう考えても苦しいし難しいしキツすぎる。それにやっと見つけた言葉だって、自分の身体から出た瞬間に別物になってしまうし。なんにせよわたしが思うに、言語化はある種のスキルだ。社員さんは「そんなものかね」とだけ呟く。でもそれだけじゃなくて我々が彼女に散文詩的な何かでも良いと言葉を求めるのであれば、そうして応えてくれたのであれば、感性を持たないことにはただの傲慢の押しつけになってしまうのではなかろうか。いやもうここまででもだいぶ傲慢だけれど。

昨日彼女を慰めようと必死になっていた社員さんともうひとりは、どちらかといえばいつでも明るいあちら側の人間だった。対して彼女とわたしは、敢えて対比的に言うのであればどうしても仄暗さを払拭できないこちら側の人間であった。彼らは陰気には陽気を当てて、元気になって欲しかったのだろう。それは彼らの正攻法で純度100%のやさしさだ。でも、わからないけれど、彼女にもし何かをしたいと思うなら、きっと必要だったのはただの寄り添いだったんじゃなかろうか。傷

の舐め合いでもいい、頷きでもいい。これはただの感性の違いであって何も誰も責められやしないことだと思う。

たとえば親友のことを「彼は僕にとってたっぷりのナポリタンだ」と、詩的に表現したとする。あたたかくて、幸福で、懐かしい情景。でももしかしたら他の人に同じことを言わせるのなら、それはなみなみと注がれたメロンソーダかもしれないし、くたくたになったあとに吸い込む煙草の紫煙であるかもしれないし、最後の晩餐としてのオリーブのひと粒であるかもしれない。俵万智のサラダ記念日が本当はからあげ記念日であったように。マジで何言ってるかわかんなくなってきた死のうかな。

とにもかくにも、我々は詩人ではないし、評論家でもなんでもない。彼女をこちら側の人間としていいのなら、現在の状態から言葉を強要し元気にさせようとするのはおそらく惨いことだと思う。それは謝罪が赦しを乞うための暴力であることと一緒だ。言葉はいつだって暴力なんだ、言語化だって感性だって、受け取り手が存在してしまう時点で意図せず頬をすぱりと切ってしまう。悪意も善意も関係がない。かなしいことに機械じゃないんだからチューニングだって完璧になんか無理だ。

今わたしは酒を飲みながらこれを書いているので、酔いが覚めればまた違ったことを思うんだろう。そしてクソみたいな散文詩としても零点の文章を書くわたしとはマジで関係なく、桃のようにやわこくてかわゆい彼女は今晩も枕を濡らすのかもしれない。ただ、明日の朝起きた時に。そのまぶたの腫れが少しでもマシでありますようにと、彼女にとってのたっぷりのナポリタンにもなれない身分で願っている。